脆く、無力な、人間で良い。

Published by Hiromi Nishiwaki on

Portrait of Emperor Marcus Aurelius (type III). Roman artwork of the Antonine period.

厳格な正義より実り豊かなものは、慈悲の心である。/ エイブラハム リンカーン

I have always found that mercy bears richer fruits than strict justice. / Abraham Lincoln

 

 私は今、バッハのゴールドベルグ変奏曲を聞きながらこの記事を書いている。

 集中するということは極めて難しいことだ。特に集中を開始する段階において。一度集中してしまうとフローの状態になり、先々もそのエネルギーが続いていくのだが、そのフローのエネルギーに持っていくことが極めて困難なのだ。

その理由は、この世の喧騒によるところが大きい。

 

先日の記事でも同様のことを書いたのであるが、なぜ世の中は、このように騒々しい音楽を巷で奏でているのであろうか。静謐などというものは、とても見出すことができない世界に我々は住んでいる。

 

音楽を例に取ってみる。現代のポップスが悪いなどとは言わない。しかし、その音階の使い方といい、楽器の組み合わせ方といい、心を乱すものばかりだ!純正律のアディエマスやエンヤを思い浮かべて欲しい。どれほど安らぐことか!レディーガガが悪いとは言わない。だが、私は彼女を見ていると、とても平和な気持ちにはなれない。

 

政治にしても経済にしても、心を乱すものばかりだ。パクス・ロマーナの時代には、五賢帝がおり、マルクス・アウレリウスのような政治家も過去には存在した。私も憧れたものだ。ルキウス・アンナエウス・セネカ、マルクス・トゥッリウス・キケロも存在した。彼らを思い浮かべてみればいい、どれほど安心することか。

なぜこれほどまでに、現代は乱れているのだ!

 

私が極めて神経質な人間であることもあるのだが、このような喧騒においてなんとか精神の安定を見出すためには、バッハのゴールドベルグ変奏曲や、平均律グラーヴィアなど平和や調和のエネルギーが込められた曲を聞く他に私は解決策を見いだせない。ゴールドベルグなどは、そもそもは、カイザーリンク伯爵の不眠症に寄与するために作曲された曲である。それほどの鎮静力が、昼においても必要なほど、世の中は騒々しい。

 

他には瞑想や自然に触れることなどが思い浮かぶのだが。いずれにしても、なんたる世の中だ、騒々しいこと極まりない。ため息が出る。次の曲で魂を鎮めることにしよう。

 

https://www.youtube.com/watch?v=HlXDJhLeShg

 

さて、今日は女性エネルギーの重要性について書きたいと思う。
理由は、私が先に述べた世の中の乱れが、女性エネルギーの欠如も主たる要因であると考えるためである。

特に男性が、女性エネルギーの重要性を理解し、尊重するようになれば、世の中の一層の平和の進展に役立つと考え、記事を書くことにした。

  

陰陽思想によれば、世界は男性原理と女性原理によって成り立っている。

男性原理とは、外に向こうとするエネルギー、すなわち、論理的、理性、行動力、独立心、統率力、支配欲、強硬、直線的などのエネルギーをいい、女性エネルギーとは即ち、潜在意識、直感的、感情的、インスピレーション、創造性、受容、慈愛、育成、柔軟性、曲線的などのエネルギーを言う。

 

さて、この世界はあまりにも、男性エネルギーが満ち溢れすぎているのではないだろうか?

 

言うまでもなく、世界の代表?であると言っていいトランプ大統領から、慈悲を感じさせるようなエネルギーはほとんど感じられない。彼の顔は美しくない。また、大統領夫人のメラニーは、強く自立したイメージはあるが、女性らしい慈しみのエネルギーは、私には感じられない。私にはメラニー夫人が女性らしいとは全く思えない。はっきり言って、ただ怖い。

 

 西洋がハリウッドで魅力的であると推奨している女性の殆どは、私には怖い女性に見える。

ミラ・ジョボビッチは強いだろうが、私には強くて怖い女性だ。アンジェリーナ・ジョリーは美しいだろうが、男勝りの強さでなんの意味があるのか?シャーリーズ・セロンは美しくて孤独であろう。なぜそれほどまでに、いつもいつも戦わなくてはいけないのか?

何故に、いつも武器を振りかざして戦っているのか?疑問でならない。

 戦うことがそんなに大切か? 好きなのか?楽しいのか?

平和や慈しみの精神は、非生産的だから、必要ないのか?

なぜ、女性に、戦うこと、即ち男性エネルギーを強く持つ女性がこれほど称賛されるのか?世界は総オス化を目指しているのか? フランス語から女性名詞が消える日が来るのだろうか?

 

 しかし、世界は男性だけで成り立っているのではない。言語にも男性名詞と女性名詞がしっかりと認識され示されている。

人間が自然の一部である以上、同様に、人であろうが、政治であろうが、その中にある、男性エネルギーと女性エネルギーのバランスが整えられなければ、平和が実現されえないのは、自明なのではないだろうか?

 私は、トランプ大統領や男性の中の硬直した、攻撃的エネルギーの中に癒やされない男性エネルギーの悲しみと怒りを感じる。

彼は自らの中にある脆さや、至らなさ、不完全さを受容し、表現する喜びを、許しているであろうか?彼は心豊かに泣く喜びを知っているだろうか?弱さを打ち明け、心から他人と問題を分かち合う喜びを知っているだろうか?怒りに、悪というレッテルをつけず、純粋に怒りを味合う喜びや癒やしを知っているだろうか?

そして何よりも、それらのネガティブな感情を受容した先に、新たな地平線があることを、知っているだろうか?

硬直した男性エネルギーを振りかざす人間に対して、誰が歩み寄りや、譲歩をしたいと思うであろうか。

 

翻って、冒頭のリンカーンの言葉を検証してみたい。

“厳格な正義より実り豊かなものは、慈悲の心である。”

正義は論理的、即ち男性エネルギーであり、慈悲とは即ち女性エネルギーである。

アメリカ合衆国第16代大統領は、大国のリーダーにあって女性エネルギーの重要性を説いていた。

 

またパックス・ロマーナを実現した五賢帝の中でも、最も有名であると言っていい、マルクス・アウレリウスは、

“哲学が君をつくりあげようとしたその通りの人間であり続けるように努力せよ。神々を畏れ、人々を助けよ。人生は短い。地上生活の唯一の収穫は、敬虔な態度と社会を益する行動である。”

 敬虔さとは、大いなるもの信じ身を慎む態度であるゆえ、慎みの中には女性エネルギーがあり、社会を益するとは即ち、己のためだけでなく、より大きなものの中に身を置くことを意味するがゆえに、多少なりとの自己犠牲を要求するゆえ、女性エネルギーの重要性を意味しているといっていいだろう。

 

即ち、昔から、男性は、戦いの中で、女性的なエネルギーの重要性を最終的に学んできたのだ。

 なぜ男性は女性に降参しないのだ?

 

そもそも人間に、悲しみや劣等感、無力感などといった脆弱さが存在しえないはずが、ないのである。

そして、むしろ、そのような感情は認められ、癒やされる必要があるし、表現される必要があるのだ。男性が泣くことがなぜ悪い?武士道では男性は、品位と名誉を何よりも重んじ、科目であることを美徳とし、感情を表すことを嫌った。感情を現してはいけないことが求められていた。だが、感情を抑圧した人間の末路がどこにあるだろうか

 

地下鉄に沢山いる、表情のない、自分が何をしたくて行きているかもわからない無表情な人間の増産である。彼らは、ロボットよりもつまらない人間になりえているのではあるまいか。何よりもそんな人間に魅力を感じるか?そんな人間になることで、本当に社会や人生を豊かにできるとでも思うのか?

 

人間とは豊かに涙を流し、ときに純粋に怒りを現し、悔しがる存在である。

ロボットは豊かに涙を流さない。人間は、泣きながら前に進めばいいのではないか。怒りもまた、純粋にその感情を裁くことなく静かに自らがそれを味わい、癒やしながら前に進めばいいのではないだろうか。男性も泣けばいいのだ。その時私達女性がどう感じるか?愛しいと感じ、私達も、その美しさ故に、ともに、心から運命をともにしようと、戦おうと思うのだ。即ち、男性の中の女性性が、女性の中の男性性を呼び起こすのだ。

 

人間というのは、何事につけても、押さえ込めば必ずどこかでそれが吹き出すようにできている。鉄仮面のように感情を押し殺してもそれがどこかで必ず吹き出すのだ。

そして、男性エネルギーの中における、そのような表現しきれていない、愛されていない未浄化の女性エネルギーが、攻撃となって、戦争となって、そこに吹き出すのではないだろうか?

 

私は男性に、いや男性エネルギーに対して、申し上げたい。あるいは、全人類に、そのように申し上げたい。

人間的になってほしい。弱さや至らなさを受け入れ、表現する勇気を持ってほしい。

人前で泣ける人になってほしい。そしてそれは、決して弱いことではないし、それによって、他人が遠ざかるわけでなく、むしろ、協力し助けようとする契機を作ることを知ってほしい。

 他人を本当に結びつけるのは、強さや能力だけではないことを知って欲しい。

世界のリーダーには、一方的ではなく、相互的なコミュニケーションや対話によって問題を解決する姿勢を示して欲しい。演技でなく、心から脆さを露呈して欲しい。

 ミラ・ジョボビッチやアンジェリーナ・ジョリーに、弱さや至らなさを表現する勇気を持ってほしい。女性が戦士であるというモデルを作らないでほしい。

完全に強く美しい女性の見本なんて作らないでほしい。不完全であることを許すモデルになってほしい。脆くあってほしい。

 戦争で攻撃されたとき、杓子定規の男性的な論理的な弁明をしても、人は見抜く。そして、心が大きく動かされることはない。

 

女性のように、心から真心で語り、弱さや脆弱性を示すことこそ、惨めさ、至らなさ、悲しさを豊かに表現することこそ、実は、人が真に問題の核心に気が付き、そこから、真剣に立ち上がろうとする契機を作ることを知ってほしい。

 

男性エネルギーが、その中にある脆弱さを自らに表現することを許したとき、それを慈しみ受容する女性エネルギーに出会う。

女性エネルギーは、愛しいと感じる。そしてその慈しみのエネルギーは、心から運命をともにしようという決意となり、次にともに戦うという、女性性の中の男性性を呼び起こすようにできているのだ。これこそが、男性エネルギーと女性エネルギーの真のパーナーシップであり、男性性と女性性の調和であり、真の解決への糸口になるのではないだろうか?
 

世界人類が、真の痛みをともに分かち合い、真に平和な世界が訪れることを、私の不完全さと、無力さ通じて祈りたい。

 Donizetti: Harp solo from "Lucia di Lammermoor" , interview LIVE (Farkas Mira)

 

  

――――errare humanum est. ――――

Categories: culture

Hiromi Nishiwaki

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