日本の中にこそダイバーシティはある。
ひとことに日本と言っても、実は私のような東京人には、長野人はやっぱり別人種に思える。長野の人は、礼儀や道徳、そしてやはり和に重きをおいているのを感じる。そして、それこそが、まさに私が長野を愛する所以である。
それが顕著に現れているのが早朝の長野駅の駅員さんの対応だ。立派なかっこいい制服を来た、大人の紳士が、乗降客に、頭を下げて、なんどもなんども挨拶をしているのだ。私はその礼儀正しさに驚いた。長野の人に聞いてみると、たいしたことないことだと考えている。とんでもない!長野の人は長野の魅力に気がついていないのだ。あれほどの、礼儀正しさ、美しい所作は世界のどこにも見当たらないと私は思っている。
そしてまさにここだ。地方の人は地方の魅力に気がついていない!だから私のようなよそ者が役に立つのだ。
一方、私は、宇宙>地球>日本人だと思っているので、地球や宇宙という観点から、倫理観や行動基準を決めている。よって、長野の人は、私とは違うなと思うこともある。自立した人生を追求しており、自らの人生に責任を持つのが好きだ。一方、もちろん自然や生命の尊重では、両者ともに同じ考えである。
ところで、最近東北の人と知り合いができて、東北のことを考えていた、やはり歴史的に考えても東北は、朝廷文化(中央政府)に征服されてしまってきた歴史がある。
東北地方は、かつても、今日も縄文文化、農耕文化を規範としている。共同体で地域を運営してきた。
上方からは、蝦夷とかつて呼ばれており、アテルイ率いる蝦夷連合は坂上田村麻呂によって、滅ぼされてしまい、処刑されてしまった。以後、朝廷の統治に置かれた。
いつぞや新聞で、東北の人は、その地域的特質を理解しており、福島より北は、また別の日本と理解しているといのを読んだことがある。それは彼らのプライドと地域性を守る志ゆえなのだろう。
ダイバーシティというが、そもそも、日本がダイバーシティに実は富んでいるということ、それを理解することが、世界のダイバーシティを理解とすることと、同義だと思う。
私にとっては、アテルイさんは、インディアンの酋長のイメージに繋がる。きっと賢く強い勇気ある人だったのだろう。アテルイさん、外国人ぽい顔をしている。平和を愛する縄文人は、堀が深い顔だったらしい。日本人であるからには、日本の歴史をきちんと学びたいものだ。
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