バカの壁、あるいは、 助けを受け入れる勇気
バカの壁
養老孟司のベストセラーにバカの壁という本がある。
自分には解決が困難だと思われている問題は、実は視界不良な状況に陥ってしまっているだけで(それをバカの壁という)、俯瞰して眺めてみると、実は案外簡単なところに、解決策がある、といういようなことが趣旨であったように思う。
まさにそのとおりだ。人は追い詰められるとどういうわけか、硬直してしまう。
これは古來からある、逃げるか戦うかの反応から来ているのだから、根源的に当然の反応である。
しかしこれもまた皮肉なことであるが、硬直した体で、いいアイデアが出ることはない。また、いい仕事ができるはずもない。
だから、パラドックスであるが、人間は危機にあるときほど、リラックスしていたほうがいいのだと思う。追い詰められたらまずリラックスする。これができるようになると、人生は変る。
人間は常にリラックスしてたほうがいいと私は思う。ただし背筋は伸ばして。宮本武蔵の五輪書における、水の章にあるように、流れるごとく自らの有様を変幻自在に操れるようになったら素敵だと思う。
救いの手
さて、ここから救いの手について書きたいと思う。
我々日本人は他者からの救いを十分に受け止められる力を十分に持つ民族であろうか?或いは、人から何らかのものを、"いただく"とか、”人に何かをしてもらう”ことを自らに許している民族であろうか?
言語の解釈に誤解がないように、ここでは、民族という言葉を、集団という言葉に置き換えても差し支えがないことを述べておく。
私は、日本人という集団は、他者からの助けを受け入れることを良しとしない集団であると思っている。
例えばこういうことがあった。長野県は台風19号の影響を受けた。2019年11月1日時点で死者は91人である(内閣府発表)
http://www.bousai.go.jp/updates/r1typhoon19/pdf/r1typhoon19_29.pdf
詳しくは上記のリンクを参照されたい。被害は福島に集中し、宮城、千葉と続いてていることが分かる。ちなみに、被害状況のデータを収集しようとしていたとき、本日付けのデジタル版の朝日新聞においては、”福島県と千葉県において死者数が12となった”という記述を見た。いい加減なもんだ!
それはそうと
それはそうと、私は本日長野県のとある福祉事務所に電話をかけた。理由は、私の海外の友人の多くが、何ができることがないかと言ってくれたので、素直に彼らの力を借り、少しでも早い復旧に貢献したかったからだ。
予感は的中した。必要ないという言葉だった。正確に言うと
人手は足りないが、外国人の力までは、必要としないという回答であった。
なんたる回答!しかも、それは、一度、責任者に訪ねてみますね、という応対があった後の、責任者による回答だったのだ。
私は、昨日のローカル新聞において、長野県はターゲットのボランティア数を遥かに下回る数しか集められず、極めて困難な状況にある、という”事象を””認識した”。そこには、建物残骸の写真がことの重大さを物語っており、また、地元の人間に聞くと、事実、まだまだ大変な状況であることは自明である。またテレビなどでも、東日本大震災に匹敵するほどの被害を受けている地域があるのにも関わらず、他からの関心を集められず、非常に苦しい状況にあると報道している“事象”を、“観察”した。
にもかかわらず、統括事務所が、外国人の力までは必要としていない。というのは、どういうことだろうか?
そして彼は次に、このように言葉を続けたのだ。
福島などは、もっと困っているから、そちらに電話をしたほうがいいんじゃないですか?と。
ものすごく、悲しい話ではないだろうか?善意で教えてくれたのだろうが、私は長野県の住人であり、縁があり、数ある中でも長野の被害者を、今回はとりわけサポートしたいと話したのだ。差し伸べた手を、そのように巧みに転送するとは悲しいではないか!
少しコメントしたい。
まず第一に、この担当者は外国人ということで、ボランティアに壁を作ってしまっている。今どき、役所に準じる組織に勤務する人間であれば、外国人という理由で、物事を対象からあからさまに外すことを、相手に悟られるような行動は慎むように教育されているべきである。自分が同じことをされたらどう思うだろうか?本当にがっかりするだろう!
気持ちはわかる。日本人得意の外国人恐怖、あるいは、面倒回避に由来する発言であろう。私も若い頃経験したから分かる。また、福島のほうが被害が大きいことは事実だ。でも、だからといって、こちらからのラブコールに、そのような仕打ちはないだろう。もし、そのラブコールを、“転送”したいなら、上手に“転送”するだけの、大人の技量を示さなければならないと思う。それが、大人だ。恋愛も仕事もスマートにやって欲しい。
Fireworks at Ryōgoku Bridge Utagawa Toyoharu
地方において我慢ならないのは、例外はすべて断るという姿勢だ。しかも簡単に。また時に嬉しそうに!
困っているのに、例外だから断る。困っているけど、プライドがあるから断る。
私は長野県は聖書におけるパリサイ人のようだと思うことがしばしばある。教義を守ることが一番大切だと考えている点においてのみだが。
しかし、外国人であろうが、宇宙人であろうが、誰かが困っている時に、助けを受け入れないのは良いことであろうはずもない。その人が嫌いだとしても、その人が苦手だとしても、その人が、何か力になろうとして、手を差し伸べてくれようとしたのならば、それを受け入れる勇気と能力を発揮するべき時なのだ!
桜が散るごとく自らも散らなくてはいけないのか?
しかし、桜のごと散ることを美しく感じるわれわれの精神、武士道における高邁高潔の理念 -ひらたく、卑近な言葉で現代語に翻訳してみると、自爆理念(ご先祖様お許しください。)は、他者からの助けを受け入れることを拒否させる。
他人に助けを求めること、及び他人からの助けを拒否させる何かを、我々はDNAの中に持っているのではないだろうか?少し自分の心の中を覗いてほしい。
しかし果たして、人に物を頼むことはそんなに悪いことであろうか?或いは、これが欲しい!これが嫌だ!と言えることは悪いことだろうか?
昔オリンピックの選手で円谷幸吉という選手がいた。”国民”からの金メダルの期待の重圧の重さに耐えかね、自殺してしまった人だ。なんたろうことであろうか?なぜ、このようなまでに、自らを痛めつけてしまうのだろうか?
なぜ、日本人は悲劇のヒーローが好きなのであろうか?なぜ、風と共に散ることを良しとしてしまうのだろうか?
なぜ高校野球の選手は、真夏の炎天下、野球をしなくてはならないのだろうか?それは健康的か?脳卒中になったらどうするのだ。
なぜ、長野県の中学生の一部は、男の子が未だに丸刈りにしているのだろうか?それは、彼らの克己心を育むために必要なのであろうか?彼らが自らの魅力に自信を持つために、彼女を作る喜びを味わうために、髪の毛を伸ばさせてやればいいではないか!
自らを痛めつける精神構造
私は、日本人の美しく”散る”という痛々しい幻想から、我々が自らを必要以上に痛めつける精神構造を持っていることに気がついてほしいのだ。
そして、痛めつけることよりも、幸せを、自分だけで孤高高邁に死ぬよりも、助けを受け入れることを、選んでほしいと思うのだ。(まるでアッシジのフランチェスコのようだ!)或いは、江戸時代の町人のように、本来持っている創造性を開花させたのならば、なお、好ましい。はっきりと言えば、日本人が喜びや創造性の中で生きられるようになってほしいと思う。
阿波踊り
毎日、阿波踊りの精神を持って生きていれば、日本はほんとうの意味で豊かな国になるであろう。物心ともに豊かな日本であることを、私は所望スル。(←学問のすゝめごとく、カタカナにしてみた。)
バカの壁をよく観察してみると、救いの手があるのかもしれない。芥川龍之介の蜘蛛の糸だ。自分がそれを受け入れる勇気さえ持てば、誰もが実は幸せになれるのかもしれない。そして、本当は、日本人は、馬鹿になれるのだから。
Mitsukuni and the Skeleton Specter (one of a triptych), Kuniyoshi
dedicated to my "non-japanese" friends, who gave their hands to Japan and were rejected, just like I was rejected many times.
了
バカの壁
https://www.shinchosha.co.jp/book/610003/
円谷幸吉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89
蜘蛛の糸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%98%E8%9B%9B%E3%81%AE%E7%B3%B8